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空無の森

「空無の森」というのは私が10年以上前に自分の人生を振り返るために書いた個人的な日記、備忘録のようなものでした。「空無」とは仏教用語です。20歳くらいの時に読んだ「仏教とユング心理学」(J・マーヴィン・スピーゲルマン+目幸黙僊著・春秋社)という本に出て来た言葉です。

 

"存在しているかのように見える事物は、全てが仮のものであって実在していない"という意味があります。

 

「仏教とユング心理学」は無学な20歳の私にはとても難解な本でしたが、この本に出て来た「空無」というワードにはとても惹かれるものがありました。この中で禅の悟りに至る道筋を牛を主題とした10枚の絵に表した「十牛図」というものが紹介されているのですが、その「十牛図」の最初の1枚「尋牛(じんぎゅう)」に付した著者(J・マーヴィン・スピーゲルマン)のコメントの中に最初に「空無の森」という言葉を見つけたんです。「十牛図」についてここで説明することは長くなりますので省きますが、私は自分を取り巻いて苦しめている物事、これまでの人生で負った様々な心の傷はまさに「空無」に他ならないと、この本を読んで、そして「十牛図」に接して考えたんです。

 

まずは自分が今、「空無の森」に佇んでいることに気付く必要がある、そのために自分の歩み、心の内を覗こう、振り返ろうと思いました。私を苦しめたり、傷付けて来たものは、私の存在しているこの世界の全てではありません。「空無」といっても無意味であったり、からっぽということではありません。それは仮初めのものであり、実体がそこにあって私を苦しめているのではなく、縁や意味を持って私にアプローチしている私という存在のごく一部に過ぎないということです。自分を知ることから始めなければ、何も解放することは出来ません。

「空無の森」と題した自分の半生の記録を文字としてしたためることは、私にとっては重大なセラピーでもありました。書けば書くほどに心の防御本能が働いて忘却していたような細かな事柄も掘り起こされ、パソコンのキーを叩くのをしばし休んで涙したこともありました。人の痛みに上も下も、大も小もありません。私よりも過酷な人生を送っている方はたくさんいらっしゃいます。私は私の人生に何が起き、そしてそこでどう感じたのか、その結果どうなったのかを探求し、そして曝け出さなければ、自分も周囲も変わらないのではないかという危惧があったんです。

結果的に私はこの「空無の森」を書いたことによって様々な出会いを経験しました。多くの方々からメッセージを頂き、私が経験して来たことに対して、同じような経験をされた方々から共感を頂きました。この「空無の森」は自分自身の承認欲求を満たすために書いたものでも、不幸自慢をしたいがために書いたものでもなく、自分が再スタートを切るためにどうしても必要な通過儀礼のようなものでした。ですから、誰に見せようと思って書いたものでもなかったのですが、多くの方々の目に触れて共感頂けたことは意外でした。

現在のような活動をする上でも、自己の表明というのは非常に大事なことだと考えています。スピリチュアルの名の下に活動をしている人は完全無欠な超人であってはいけないと思っています。そういう人を求める方もいらっしゃるでしょうが、私が考える真のスピリチュアリストは、自分自身がかつては一番癒されたい、救われたいと願った1人の弱い人間なのだという宣言が出来ることです。上から下に託宣のように言葉を投げ掛けることはエゴに他なりません。自分という存在を秘匿せず明らかにした上で、その人の立場と目線に立って、偽らざる心からの言葉を投げ掛けることに意味があり、それが活きるのだと思います。

私の鑑定をお受けになられた方は、この「空無の森」を読まれて「この人なら私のことを理解してくれるはずだ」と思われた方が多いのではないかと思います。そして実際にそのようなお言葉を頂戴することもあります。依頼者の人生も多様であり、心に深い痛みや寂しさを伴っている方も多くいらっしゃいます。そうした人生の機微に接する機会を持たせて頂いていることにも誠に深い意味と意義があるのだと信じています。そういう意味でもこの「空無の森」を通して自分の生い立ちを明らかにすることは私にとっては大切なことなのです。

「空無の森」を全て読まれるのは骨が折れることだと思いますから、ここに簡単に省略した形で私の生い立ちを記しておこうと思います。

私の父はかつては画家を志していた建築デザイナー、母は元デパートの美容部員で短歌を詠む歌人でした。母は私が物心ついた頃から統合失調症(当時は精神分裂症と呼ばれていた)で入退院を繰り返しており、母と一緒に暮らした時期はごく短い期間です。母が入院している間は、親戚に預けられたり、父が仕事現場に幼い私を連れて行き周囲の人々が私の面倒を代わる代わる見てくれていたそうです。母が退院をしても、薬を飲むことを嫌うのですぐに病状が悪化し、幻覚、幻聴や徘徊に悩まされる日々が続きました。一番苦しかったのは母が精神病院に強制入院(措置入院)させられるところを見ることでした。屈強そうな男性2人くらいに両脇を抱え上げられた嫌がる母を無理矢理車に押し込める有様は幼い私には想像を絶する光景でした。父と2人で母の見舞いに訪れると、母はその度に私にすがって泣くのでした。

中学に上がったばかりの頃に、母方の親戚が我家を訪れ、私にこう問いました。「お父さんを取るか、お母さんを取るか、今ここで決めなさい」そう言われ、私は迷わず父を取りました。本来なら「どちらを取るか」などという選択など出来るはずがありません。母とはそれ以来、生き別れの状態となってしまいました。

中学三年生の夏になると父が事業でトラブルを抱え、当時住んでいた家を夜逃げしなければならなくなりました。家財道具の一切を置き去りにして着の身着のまま最低限の持ち物だけで夜の静寂(しじま)に紛れました。その日、夜を明かしたのは近所の公園です。朝になると通学する同級生達がその公園の前を通りすがるのです。。そそくさと父と2人物陰に隠れます。恥ずかしさと惨めさと情けなさが込み上げ、もう同級生達と2度とこの道を歩いて学校に通うことはないのかもしれないと覚悟しました。それから父と共に宛てもない放浪生活、ホームレス生活が続くこととなります。ただただ時間をやり過ごすために靴底がすり減るほど歩き通した、あの道、頬に当る風の感触を未だに忘れることが出来ません。あの日のあの夜、多くの人が味わう10代らしさを、あの地に置いて来たのです。

しばらくホームレス生活が続いた後、炭鉱の町、筑豊は飯塚に落ち着くこととなります。老夫婦が営む小さな旅館の二階の六畳間に数ヶ月間お世話になった後、ようやく部屋を借りることになります。しかしここから長きに渡る(約9年間)引きこもり生活が始まるのです。この引きこもり生活の間での唯一の楽しみは音楽と文筆でした。自分は一生、社会に参画することが出来ずに、このまま部屋の中で朽ち果てていくのではないかという絶望感から命を絶つ決意をしたこともありました。実行に移して失敗したこともありました。今日食べるものにも事欠くような生活状況の中で老いた父が必死に私を守ろうとしてくれている姿に、自分を変える決意をし、引きこもりから脱して仕事を得ます。

仕事に就いたのを機に夢であったバンド活動を始めます。社会に参画し、仕事を得、人に必要とされる喜びを初めて感じることが出来ました。次々に自分がかつて実現したかったことが叶えられていきましたが、また再び大きな挫折がやって来ます。パニック障害と社会不安障害になってしまうのです。職を失い、人も去りました。新たな職を求めるために雇用先に電話をするのも声が震え、手が震えます。買い物をするためにレジに並ぶのさえ怖く、日常生活が送れなくなってしまいます。既にこの時には父も亡くなってかなり時間が経過しており、この時ほど孤独を感じたことはありませんでした。

そして、またこうした「空無の森」を彷徨いながらも新たな出会い、キッカケの到来によって今の私がいるのです。

Mark Kay の 生い立ちブログはこちらをクリック ⇒『空無の森』
 

 

 

 

 

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