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水子の祟りはあるのか?
Q.水子の祟りはあるのか
A.水子供養というものの背景には、望まない妊娠と恋愛における種々の問題が横たわっています。これには10代での妊娠中絶という問題も含まれるでしょう。これは近年の「性の乱れ」や「恋愛の価値観の多様化」「家庭不和」によるものの影響が大きいのです。
これに眼をつけたのは檀家の少ない(財政難の)中小規模の寺院であり、祈祷師や霊能者なのです。その時々の社会問題を上手く取り入れ反映させて行く手法はスピリチュアルという業界では至極当然な事なのです。寺院の中には本当に堕胎をしてしまった女性の"心のケア"としての"供養"を重要視していらっしゃるところもありますが、残念ながらそうではないところもあります。また祈祷師や霊能者にいたっては女性の精神的な痛みや弱みを利用して法外な金銭を要求するケースが後を絶ちません。こういった祈祷師や霊能者は依頼者自身に堕胎の経験がなくても「貴方の家族や先祖に堕胎した者がいる」と言い張ったりします。もうこれはナンセンスとしか言い様がありません。
声高に言いたいのは"彼等"が「愛」の力を知らないのだということです。結論から言えば「水子」所謂胎児の霊は存在します。この子達は何の穢れも知らない無垢な、それでありながら聡明で既知に溢れた立派な「スピリット」なのです。しっかりとした意志と目的を持っています。その様な存在が人を恨み祟る訳がありません。だって自分の存在はしっかりとそこに在り、存在したままなのですし、その親の元に生まれようとした「霊的な意志」を自ら尊重し、選択に確信を持っているからです。
堕胎しなければいけない事情、堕胎してしまった後の思い、それを全てその後も母親と共有しているのです。胎児という肉と骨と血で出来た存在は、その存在の「全て」ではありません。スピリチュアリズムでは胎児の霊は妊娠の瞬間から母親の胎内に宿るとされています。妊娠の瞬間から永遠に生き続ける存在として出発しています。ただ「堕胎」という行為で生まれ落ちる(肉体を伴って)場所が変わるというだけで、「スピリット」は存在し続け、生き続け、成長を続けるのです。そして生まれるはずだった場所への「愛」は継続されます。祟られるどころか、愛されているのです。
「祟り」という言葉を恐れて法外な金銭を何の迷いも無く支払う行為は、こうしたことに盲目になっている証です。「中絶が殺人と同じ様に罪であるかどうか」という道徳上の難しい問題はありますが、金銭を支払う事でその罪が洗い流されると考えること自体にも大きな問題がないでしょうか。その後の人生で如何に自分を顧みて、行いを正し利他的に生きて行くかが本当の供養なのではないでしょうか。
胎児の霊は、元々は霊的な成長のために、この世に再生することを自ら決断した側面があります。この世で霊的な成長を遂げるために必要とした肉体を一時的に失ったとしても、再生するという目的はそのまま残りますから、胎児の霊は、機会を待って新しい肉体を得るための行動を取ることになります。
流産の場合は、胎児の霊が自ら霊的な成長を遂げるために決断したこの世への再生を、尻込みして拒んだ結果だともいわれます。この場合、胎児の霊は自ら下した決断によって、一旦形成された道筋を、途絶させたことになりますから、新たに再生するためのチャンスを得るために、もう一度そこに至る過程を構築し直さなければなりません。母親の方は、流産をしたことによって大きなショックを受け、自分を責めたり、苦悩を味わったりしますが、実はこうした感情は、この世に誕生するはずだった胎児の霊が、霊界で新たなカリキュラムを履修する苦労に等しいのです。つまりこの場合でも母と子は繋がっていて、互いにカルマの清算と、霊的目覚め、成長へのチャンスを得ていることにもなるのです。
ですから、全てに意味があり、必要以上に悲しむことはないのです。
ひとしきり、後悔し、悲しみ、苦しんだら、後は自分の今後の人生をどう利他的に生きるか、生まれ落ちて来るはずだった子供と、いつか自分の人生を全うした暁に再会した時に、恥ずかしくない生き方が出来るかが問われるのです。
後悔にも、悲しみにも、苦しみにも意味があるのです。
ですから自分の身に起こる不幸を水子のせいにしたり、いつまでも堕胎や流産の事実に執着すべきではないのです。
2006年 マーク・ケイ
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