• マーク・ケイ

神様は私たちに紛れている

最終更新: 2019年8月3日



私は幼い頃からこんなことを人知れず考えていました。


「神様は天国にいるんじゃなくて、人間に紛れていて、僕らを常に試しているんだ」と。


子供時代というのは、空にふんわりと綿飴のように浮かんだ雲の上に天国があって、そこに白い衣に身を纏った白髪に白髭姿の神様がいて、その傍らには美しい女神様がいる。そして背中に羽の生えた天使達が大空を優雅に舞っていると考えるものだと思うのですが、私はちょっと変わった子でそれが信じられなかったんですね。


神様が雲の上にたとえ住んでいたとしても、きっと下界が気になって度々下りてくるに違いない。白い衣を着ていると目立ってしまうから、普段は僕らと同じような格好をしてしているに違いないと思っていました。


そうだとしたら神様はどんな姿に変装するのでしょうか。


私が真っ先に想像したのは「ホームレス」でした。今でこそ「ホームレス」などと、どこかスマートな呼び方で呼ばれていますが、私が幼い頃は「浮浪者」と呼ばれるのが普通でした(このどちらの呼び方にも問題はあるのです。「浮浪者」も「ホームレス」も、あたかも自分自身の選択によって、そうなることを望んだかのようなニュアンスを多分に含んでいる。どこか差別的な表現だということを忘れてはなりません)。ここでは便宜的にホームレスという(行政的視点の用語で歯痒いのですが…)言葉を使わせて頂きます。


私が住む福岡県に九州の玄関口、起点の駅となる博多駅があります。今でこそ駅ビルは三越などの大型商業施設が入居し大変賑わっていますが、私が幼い頃は駅構内に多くのホームレスの方々が冷たい床にダンボールを敷いて力なく佇み、座ったり、寝たりしている環境でした。


今は亡き母は時折、時間があると私の手を引き博多駅(博多駅からほど近い場所に住んでいました)に出向いて、駅の売店で大量にパンを買って、それをホームレスの方々に配っていたのです。母は「はい、これをあの方にあげて」と言いパンを手渡します。そのパンを受け取って「ありがとう」と言って頭を深々と下げるおじさんや、涙を流したり、手を合わせて拝む女性を見て、幼心に母は立派なことをしているんだと思ったものです。


当時は昭和40年代から50年代初頭。今のように支援団体もほとんどない時代でしょうから、ホームレスの方々への風当たりや、偏見や誤解は非常に強かったはずです(今も誤解や偏見は根強くありますが)。母がどんな思いに駆られて、あのような行動をとっていたのかは今となっては分かりません。幼い私がパンを手渡した時に、私の手を握って涙ぐむ女性の姿、母に対して手を合わせて拝む姿は未だに脳裏に焼き付いて離れません。


世の中には、社会に見捨てられた、置き去りにされた不遇な人達がいるのだ、貧乏でも雨露を凌げる暮らしが出来ることは何と尊く奇跡のようなもので、幸せなものだろうという思いが幼い私の心にじんわりと響いて来たのです。


そんな母とホームレスの方々との交流を見ていて、幼い私がふと考え巡らせたことこそが「この人達は、もしかしたら神様なのではないか」という思いです。


神様は、雲の上から私達一人一人の行いを見ているだけではない。私達と同じ地平に立って、私達に直接的に関わり、アプローチをして、私達の人間性や心のあり方を試しているはずだと。


ですから、あの時に母が交流をしたホームレスの方々の中にも、きっと神様はいたはずです。母は大変苦労をし、統合失調症となって、結果私とは生き別れとなってしまいますが、今は向こうの世界で逆に人を救ったり、癒したり、愛を送る存在となっているはずです。神様は当時、あのホームレスの方々の中に紛れて、母を見出し、母を一生見守り、そして人生を全うし終えた時に母に新しい役割を与えてくれたのだと理解しています。


実は、私が幼い頃から考えていた、この発想は「今」を正しく生きる上で非常に大事な視点なのではないかと最近になって痛感するようになって来ました。


いえ、「視点」どころか、私はそれこそが「真実」なのであろうと思っています。


神様は神社の本殿の中に恭しく鎮座しておられるだけの存在ではないんです。神様は常に私達の側におられます。私達が日々の何気ない暮らしの中でふと見せる利他的な愛や、優しさ、施しの中にこそ、神は宿り、その姿を見せます。ある意味、私達一人一人が神性を帯びた存在でもあるということです。


部屋の中に一匹の蜘蛛が現れたとします。私も蜘蛛は苦手ですが「嫌い!」という思いに囚われ、絡め取られると、その感情は増幅し、抑えきれないものとなります。しかし、じっとその蜘蛛を見つめていると、どこか健気で愛おしささえ感じてしまうのです。そして、それがもしかすると「神様かもしれない」そう思う心の余地があると、その一匹の弱々しい存在が私に放ってくる強烈なメッセージを感じるのです。


「さぁ、貴方は私をどうする?踏み潰して殺すのかい?それともそのままにしておくのかい?それとも捕まえて外に逃がすのかい?その選択は貴方次第。全て貴方に委ねるよ」と・・・・


もし、その一匹の蜘蛛が神様だったとしたら、それを救った時、殺さなかった時、その存在が私に語りかけてくるのは、どんな言葉なのか。その答え合わせは、この生を全うし終えた時かもしれません。


「あの時、貴方は私を助けてくれたね。外に逃がしてくれた。あの時、実は貴方の”弱い者”への姿勢を試していたんだ。貴方に委ねられた選択肢、自由意志を貴方がどんな風に使うのかを知りたかったんだ」


もし、そう蜘蛛に変化していた神様が私に語りかけるのであれば、私は迷わず蜘蛛を逃がす選択をするでしょう。そういう想像ができる余地がある、ということこそ人生の面白さでもあります。


最近「モリのいる場所」という映画を観ました。


亡くなった樹木希林さんのファンでしたので、そのお姿を一目見たくて映画館に足を運んだんですね。また画家の熊谷守一さんを描いた作品ということで、その点にも非常に興味があったんです。


劇中にこんなシーンがあります。


山崎努さん演じるモリこと熊谷守一は、全く欲のない人で、自宅の庭を愛し、30年間外出もせずにひたすら庭の木々や昆虫の観察に明け暮れるという仙人のような暮らしをしているんです。


日本を代表する著名な画家ですから、自宅には様々な人々がモリに絵や書を描いてもらいたくて集まり、いつも何だかんだ賑やかです。


ある日、大勢で食事をしていると突然、電話が鳴ります。モリの奥さんである樹木希林さん演じる秀子さんが電話を取ると、それは文化勲章・受賞の内示だったのです。


普通の感覚なら、飛び上がって喜ぶはずですが、モリは「いらない」の一言。無欲、これ極まれり、です。秀子さんは電話口の担当者に「いらないと申しております」と返事をします。


モリの心の在り方、無欲さが非常によく表現された場面です。


また、こういうシーンもあります。


このシーンこそが私が、ここでお伝えをしたかったことに通じるお話です。


ある雲水館という旅館の主人が、旅館の名前を看板に書いて欲しいと懇願しに訪れます。有名な画家の直筆の看板ともなれば、宿泊する観光客が増えるという算段です。


この日も、庭の観察に忙しく、秀子さんが代わりに体良く断っていたのですが、主人が「信州からはるばる来た」ことを伝えると「それならば」と看板を書くことを了承するんですね。モリは新幹線の存在をこの時知らず、わざわざ何日もかけて信州から会いに来てくれたと思って、承諾したんです。


書をしたためるシーンに三上博史演じる「知らない男」がいます。


「知らない男」はモリに向かって「こんな見ず知らずの男に書を書いてやるなんて」と詰め寄ります。しかし、この「知らない男」が一体どこの誰か、何故モリの自宅に上がり込んでいるのか、実はそこにいる誰もが知らなかったんです。


映画が終盤になると再度、この「知らない男」が登場します。


ある夜、その日も大勢の人達が集まってモリを囲んで宴を催しています。すると突然、庭に奇妙な怪光が降り立ちます。その光の中からあの「知らない男」が現れて、モリを「もっと広い世界へ行こう」と誘うのです。


異星人とか、死神とか、そんな解釈も成り立ちますが、私は神様だったのだと解釈しました。モリの日頃の行いや、人間性を「知らない男」として間近で知り得ていた神様は、その積み重ねて来た善行から、モリをあの世へと導こうと考えたのでしょう。


しかし、モリはその誘いを丁重に断ります。

実は、こういうことは本当にあることだと思います。


人生の中で「一体、この人は何だったのだろう」と疑問に思うような人というのは、必ず1人か、2人はいるものです。不意に人生の物語の中に登場して来て、不意にいなくなる。そんな人です。


強烈な存在感があるのだが、顔も名前も一切忘れてしまっているような人。

私は、そういう人こそ、神様だと思うんです。


ですから、神様に出会ったことのない人など1人もいないのですね。


テレビや雑誌で話題になっているパワースポットの神社に行って丁寧に参拝をして来たのに、ちっとも願い事が叶わない。あそこの神社には神様なんていない。


そんなことを言われている方をたまに見掛けたりしますが、それはその人が自分の人生の中に登場する人物の一人一人に深い縁を感じて、丁寧に接していない証拠だとも言えるのです。


誰の目にも明らかな神々しく厳かな神社の本殿や、マスコミで話題のパワースポットや、スピリチュアル的なキラキラした価値観にばかりに注目し、弱い立場にある人達への温かい眼差しに欠けている人は多いものです。ポピュリズムの中に神性や霊性は宿りません。


自分の人生の歩みの中には、私達を時には試そうとし、時には見守ろうとする神の存在が常にあると思って生きると、一気に人生は輝きを放つものです。


儚き、弱き、ささやかな存在にこそ、神性と霊性は宿り、私達に示唆と気付きを与えていると信じて生きてみましょう。


貴方の足元を這う一匹の虫が神様かもしれない。

散歩する小径の脇に目立たないけれど凛と咲く一輪の花が神様かもしれない。

貴方が見向きもしない存在の一群の中にも神様がいるかもしれない。

貴方が価値を置いていない存在の中にも神様がいるかもしれない。

全てに愛を持って生きてみませんか?


ホームレスという存在に想いを馳せた幼少期。


そして中学3年生の夏に突然、本当に自分がホームレスになってしまうという人生の不思議。


これは私に必要な要素を無駄なく与えてくださったということなのでしょう。



現在、当記事は加筆修正した上で女性の心と体を調えるスピリチュアルメディア「AGLA(アグラ)」で掲載されております。以下のリンクからお読み下さい。


『神様は私たちに紛れている!か弱き存在に気付く「愛ある生き方」への目覚めが幸せを連れてくる』



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